庭の観察記録
身近な自然の観察記。すぐそこにある自然を通じて、生物の多様性と神秘を味わい、クォークから宇宙まで想いを馳せる。
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約半年ぶりの更新。あれこれ書こうと思って、すべて書かず。

ちょうど4年前のことのことを書いたリンクだけはっておこう。 http://konton57.blog8.fc2.com/blog-entry-1851.html

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E3110068.jpg E3110069.jpg 今日と同じように休みだった。朝に富士山の写真を2枚撮っている。この写真を見るかぎり、よい天気だったようだから、午前中に出かけていても良さそうだが、写真が残っていないところを見ると、ずうっと家にいたことになる。スギ花粉を恐れて外出しなかったのかもしれない。8時35分の画像だから、けっして遅く起きたわけではない。しかし、それまで何をしていたのかまったく覚えていない。

午後になって、当時小4だった女優(娘)が帰ってきた。え?もう帰ってきたの?と思ったのを覚えている。それこそ、そのあとB公園にでも行こうとしていたのではないかと思う。なんでも小学校の方は卒業式に関連した行事の打ち合わせか何かで短縮の時間割だったようだ。

お昼には確か袋の即席めんを食べたような気がする。女優がもの欲しそうにしていたので、ちょっとだけ与えたような気がする。もっともそれは別の機会のときの記憶が混在しているかもしれない。

パソコンの前に、つまり今と同じようにしていたのではないかと思う。大きく揺れた。女優は1階のどこかにいた。和室の可能性が高いか。あれ、ゆれがでかいぞ。しかも、ゆっくり。最悪の事態に備えて、庭に出るガラス戸を開けた。避難経路を確保するためだ。しかし、大きく揺られながら、ガラスが割れたらかえって危ないか。それに、どこをどう逃げるんだ?ブロック塀の近くは危ない(子供のころテレビで見た)、学校に避難するとしても…。その間、左手は開けたガラス戸を、右手は柱を押さえていた。ゆれているので、手を離せなかった。女優はすぐ私の近くにいた。

となりの奥さんが玄関を開けて、外を見た。目があった。「長いですね」同意しつつ、独り言のように「これは今までの人生で経験した中で一番すごい地震だ」というようなことを言った。女優も「今までの人生の中で一番すごい地震だよ」とおかしくなるくらい同じことをまねして言った。やがて奥さんは引っ込んだが、まだゆれていた。とにかく長い。女優は私にしがみついてきたような気がする。

どうやらおさまったかなというところで、すぐにテレビをつけた。確か、大騒ぎになっていた。いや、最初はそんな大騒ぎではなかったか?記憶はかなりあいまいだ。震源は東北の方で、太平洋側だというのを知った。そのうち、けっこうたってからだと思うが、津波の映像が流れた。え?これ、やばくない?田んぼが濁流に飲み込まれていく。迫りくる流れに、悠長に道路の上を車が通っている。あんなゆっくり走っている場合ではないのではないか?と思ったが、今にして思えば詰まっていたし、あんなものなのかもしれない。一番すごかったのは、どんどん迫ってきて、どう考えてもあの車(トラックだったか?)飲み込まれるだろうという映像だった。おそらく流れに飲み込まれたはずだが、決定的瞬間になる前に別の映像に切り替えられていた。その映像は何度も使われていたが、常にその場面はカットされていた。

地震から1、2時間たってからか、女性アナウンサーが、ヒステリックにいろいろ叫んでいた必死にいろいろ呼びかけていた。そのなかで「小さいお子さんがいたら、抱きしめてあげてください」というのがあって、それを聞いて、女優が思わずこっちを見た。ちょっと照れるようなホッとするような顔をしていた。はい、じゃあ、と軽くぎゅっとしたかしなかったかいまいち覚えていない。

当時中2の電車男(息子)がいつ帰ってきたのかあまり覚えていない。学校で揺られていたことだけは聞いたし、確かだ。クミゴン(妻)は夕方か夜、確か暗くなってきてから帰ってきた。自転車通勤なのでまったく心配していなかったが、仕事上遅くなるのは予想の範囲内だった。帰宅困難者が大量に出たというのは、だいぶあとになってから知ったことだったか。19時過ぎだったと思うのだが、別のとなりの奥さん(電車男の同級生のお母さん)がうちを訪ねてきて、子供たちだけになっていないか心配してきてくれた。ありがたいことである。私にはそんな発想はまったくなかった。

とりあえず、前々から書いておきたいと思っていたことは、大体書けたかな。

久しぶりにインフルエンザになったので、ちょっと記録を残しておこうと思う。

27日(月)、夕方から夜にかけて、職場でちょっと顔がほてっていた。しかし、単に暑かっただけかも知れない。体調悪いという自覚あり。

28日(火)、くしゃみがよく出た。スギ花粉のせいか風邪のせいなのかは不明である。当時は前者だと思っていた。前日より体調、明らかに悪い。実は熱があったのかも。

29日(水)、はっきり体調が悪い。職場で夕方に熱を測ったら、37度の微熱。さらに調子悪いと思ってその2時間後くらいに計ったら、38度4分。定時より少し早く帰宅した。風呂に入って温まり、ご飯を食べずに寝たように記憶している。

1日(木)、5時過ぎに目覚め、体温を測ると38度台。そのまま寝て、次に計ったのが10時10分前。37度台に低下。仕事に行かなくてはならない。4時間だけ仕事をして帰宅。夕方にお昼ご飯を食べたので、夜ご飯は食べず。家に帰ってからは、ひたすら寝ていた。子供たちが続けてやってきたが、何かあったら携帯にかけろ、くるなと伝えた。夕方6時ころだと思うが、リンゴとイチゴの配給があった。うまかった。それで夜ご飯がいらなくなった。

2日(金)、また37度台に下がる。雨が降る前に医者に行きたいところだったが、そこまでの気力がなく、結局お昼近くにネットで調べた医者に。こんなに駅前に内科があることに驚く。

クリニック内でも検温。やはり37度台。熱があるのでということで、待合室からベッドの方に隔離される。そこで、診察に先立ち看護師さんから問診。すいていたが、私の次には若い女性がカーテン越しで隣のベッドに。聞こえてくる会話から、彼女はノロウイルスの疑いが濃厚。そこらのものから手を引っ込め、何も触らないようにした。

その後、ベッドに座ったままインフルエンザの検査。そのとき医者が登場。うむ、確かにホームページにあったのと同じ顔だった。その後しばらくしてから診察室で。「A型インフルエンザですね」「え~~~~」天をあおいだ。のけぞった。まさか!それだけはないと思っていた。熱はそんなに出なかったし。確かに寝ている割には下がりきらなかったけど。

イナビルという一回吸引すればすむインフルエンザの増殖を抑える薬を処方された。合わせて対処療法的にせきや鼻水を抑える薬と頓服薬。日曜日に頓服を使わず熱が下がっていたら、火曜日から出てよいといわれた。ただし、マスクは1週間着用と。熱は下がってもウィルスはもっているからとのこと。

家に帰ってから、薬を飲むためにご飯を食べる。なんか本末転倒。それからはただ寝ていた。夕方熱を測ったら、なんと38度台に上がっていた。そこで、夕飯を食べてから最初で最後の頓服薬を飲んだ。

2階の寝室に私は1人隔離された。夕飯でさえもそこで。冷凍のほうとうだったが、とてもうまかった。2~3~4時間ごとに目が覚めたが、かまわず横になっていた。そこまでつらくはなかったが、退屈だった。

3日(土)、熱は5時ごろにまだ38度、それから9時くらいには37度台に下がった。昼前には36度台になり、もう大丈夫な感じだった。夜明け前後にはいろいろなことを考えていたが、一番思ったのは、将来寝たきり老人にはなりたくないということ。少なくとも自分にとっては、それでは生きている意味がないと思った。

13時ごろ、職場と連絡を取った。まあ、いろいろ大変そうだったが、優秀な部下が全部やってくれた。心から感謝をささげる。ありがとう。おかげで安心して休めた。

次に電話したのは14時ごろ。なんと、No.2が出社していない。きのうの夜も具合悪そうだったという。とにかく連絡取るように指示を出した。

次に電話したのは15時ちょっと前。なんと、彼も高熱を発したとのこと。朝から40度近いと。私はそこまで熱が上がらなかったし、今流行のはあまり熱が上がらないというので、インフルエンザではないのではないかと思ったし、思いたかった。医者は土曜日だから午後はやっていないだろうし、月曜日に行くとか。

そりゃいかん。私が彼のためにネットで土曜日の午後に診療をやっているところを見つけた。その医院にも確認の電話したら、診察は16時までだが受付は15時半までにしてほしいとのこと。同じことを職場に電話し、彼に連絡を取って伝えるように言った。

この日は、ふらつくが、もう大丈夫と確信した日だった。夜には風呂にも入った。その際体重を量ってびっくり!2キロやせていた。おなかを見ると、ぺったんこ。横にしわが2本できていた。

4日(日)、やはり5時台に目覚める。熱を測ると35度台。おいおい。ちなみに、婦人体温計だから有効数字4桁だ。もう一度寝て、何度か眠りが浅くなるが、最終的に起きたのは9時。テレビでは『題名のない音楽会』をやっていた。ベートーヴェンの『運命』の第4楽章の冒頭、何か物足りないと思ったら、トロンボーン抜きでの試しの演奏だった。

昼間はリハビリを兼ねて、昨日同様、一睡もしないで過ごす。問題なし。寝たのは0時近かった。体力もほぼ回復した感触。

5日(月)、頭脳は完全に明晰。体調は、昨日より後退?仕事に行かないのは、サボっているような感じでどうもいやだ。あまり活動することなく、ダラダラ過ごす。お昼はクミゴンといっしょにリハビリかねて食べに出かけた。その後PHSの解約とコンビニに立ち読み。家に帰ってきたのは15時ごろ。体力がやはり相当落ちている。かなり疲れた。

6日(火)、ついに仕事復帰。肉体労働が勘違いで3倍あった。しかし、なんとかもった。夜、B公園に行くつもりだったが、自粛。

7日(水)、なんかまだ調子悪いよ。夜、やはりB公園に行くつもりだったが、昨日より疲れているので、連日着替えたが、あきらめた。

8日(木)、復帰してから体調最悪。手首などがだるい。夜まで持つか本当に不安だった。しかし、仕事が終わるとやや復調の兆し。翌日が休みということもあり、立ち読みをして帰った。今日こそは夜のB公園に行こうと思ったが、眠く、コタツでちょっと横になって、目が覚めたら行こうと決める。

9日(金)、コタツで目覚めたのはちょうど5時。腕時計もしたまま。雨が降っているようだ。結局またB公園は断念。しかし、やはり家でゆっくりしていると、身体は楽。だが、雨の中これから確定申告に行かなければ。

このブログを閉鎖するつもりはないが、リニューアルした『混沌の間』や新たに開設したサイトとの使い分けをどうしようか思案中。

1時過ぎから20分くらい星を観たり、撮ったりした。双眼鏡も久しぶりに使った。2時過ぎに風呂に入り、目覚めたのは5時半だった。風呂から出ると身体がぐったり。パジャマを来て布団に入ったが、体が興奮して寝付けなかった。そのまま起きていることに。眠くなったら寝る作戦。

結局、午前中は寝ることなく、外出する元気もなく。しかし、今日は床屋に行かねばならない。自転車よりも散歩の気分だった。テンション上がらないのは気温の低さももあったか。風を切るより、陽を浴びたかった。

結局自転車で床屋に向かったのは昼過ぎ。おっと、財布には1,000円札が1枚しか入っていなかったことを思い出す。お金を下ろさねば。コンビニに寄ったが、ATM、いつ空くのか見当もつかず。別のコンビニ。こちらも使っている。別のコンビに、駅前過ぎて自転車が置けない。放置自転車追放のような派手なゼッケンのようなユニフォームをかぶった雇われのおじいさんが目の前に立っている。仕方がないので、床屋方面に向かって別のコンビニを探す。こっちにはなかったよなあと思いつつ、床屋をはるかに過ぎて、やっと見つかったコンビニでお金をおろし、とんぼ返り、ではなくて、回り道してK林を通った。コオロギが鳴いていないのが意外。やっとついた床屋は、お昼休みに入っていた(汗)。おなかすいたなと思いつつ、Gパンの中の飴を取り出し、なめ、しばしの空腹をしのぐ。結局いったん家に帰る。

今度はお昼ごはんを食べに行きつつ、散歩。昨日出勤時に遠回りしたときに発見したヨモギハムシを撮るのが実は一番の目的。その前に、アカボシゴマダラの幼虫チェック。撮影中に後から話しかけられ、びっくりした。単に道を尋ねられただけだった。その後、ヨモギハムシを撮り、同じところでハラナガツチバチの仲間のオスを撮った。500円のけっこうお得なランチを食べたあと、また少し回り道をして家に帰る。

家に帰ってから、PCで写真を確認しているうち眠くなり、ついに寝る。しかし、職場からの電話でたたき起こされた。その後ようやく床屋に行った。やっぱりK林に寄り道して。

撮った写真は、混沌のアルバム2011年10月27日に。

鉢呂経済産業省大臣のウルトラKYぶりには、ただただあきれるばかりだが、それとともに、そもそも政治家が、今、放射能の何が問題になっているかわかっていないのではないかというのが、不安である。住民感情ではなく、科学的な知識においてである。そもそも放射性物質のイロハすらわかっていないのではないか。すべての政治家がそうとは言わないが、大臣になるような人間に、少なくともそういう教育(もしくはレクチャー)が(事後的にでも)なされていないということが問題である。しかし、ここでは政治的な話ではなく、放射性物質についての話を少しまとめておきたい。

福島の原発事故があったとき、問題があったのが、ヨウ素131、ストロンチウム90、セシウム137である。一番怖いのはストロンチウム90なのだが、さいわい、量は少なかったようで、ほとんど報道がされていない。ストロンチウムといってもピンとこない人のほうが多いのではないか。ヨウ素131は半減期がおよそ8日なので、予想通り、当初こそ頻繁に出てきたが、いつしか報道されなくなった。約1週間ごとに放射性物質の量が半分になっていくのだから当然である。残るはセシウム137である。これは(ストロンチウム90と同様)半減期が約30年なので、今年生まれた子が還暦を迎えるころ、やっと当初の25%の量になる。そのため、1年や2年で解決するような問題ではない。だから、今報道されている放射性物質はセシウムだけである。

そもそも放射性物質のどこが問題かということがわかっていれば、「ほら、放射能」なんて発言は、思慮を欠いた人間でも、原理的に出てこない。

放射性物質というのは、たとえて言えば、時限爆弾である。ところがこの時限爆弾、困ったことにいつ爆発するかわからない。そういう意味では不発弾にも似ているが、いつか必ず爆発するという点が異なる。そして、その爆発は1つ1つはいつ爆発するかわからないが、集団で考えた場合、この期間で半分は爆発するというのはわかっている。それが半減期である。

普通の爆弾は、爆発すると爆風を巻き起こすが、放射性物質という爆弾は、放射線という小さな小さな弾丸を飛ばす。飛ばす弾丸にもアルファ線、ベータ線、ガンマ線などがあり、当然威力も違い、対処の仕方も異なるが、ここではその違いについては省略する。とにかく、弾丸が人体に当たると、人体が損傷することがある。1つくらい弾丸が当たってもどうということはないが、その数が天文学的数字になると、無視できないことになる。(ちなみに、物質の量というのは、一般的に天文学的数字である。たとえば、水18グラムには、水の分子がおよそ600000000000000000000000(0が23個)含まれている。)

その無視できるかできないかという目安が安全基準である。この安全基準は、データが少ないので、どこに置けばよいのかは本当のところ、誰にもよくわからないだろう。これ以上は危険というのははっきりわかるが、これ以下なら大丈夫というのは、これは原理的にわからない。なぜならば、弾丸に当たってなる病気は多くは(一時に大量に浴びて急性でなったものは別として)癌であり、癌は放射線が原因でなったのか別の原因でなったのかは知り得ないから。

さて、今問題になっているセシウム137だが、どこにあるかというと、当初大気中に撒き散らされたものが地面に降り注ぎ、今は主に地表にある。だから、表土を削ってそれを地中に埋めるというのが有効になる。地表から地中に時限爆弾を移すことで、爆発したときの威力を無効に、もしくは弱くできるから。

大臣の発言に戻ると、「ほら、放射能」と袖を(仲のよい?気心知れた?)記者にこすりつけたという。福島にボランティアに行った学生が仲間内にやるのと同じノリだろう。そのノリが許される範囲ならば、これから仕事の私もこんなことに時間を割かない。大臣が「人っ子一人いない、死の街」で砂場遊びでもしてきたのならばともかく、表土を削る作業にその服で汗を流してきたのならともかく、単に見てきただけで、それはない。服に放射性物質がつくはずがない。その可能性があるのは、空気中に放射性物質が舞っている事故が起きて間もないころの話だ。そんなこともわかっていないような人間が大臣になるとは。辞任は当然だが、後任も心配だ。

原子力といい、エネルギー問題といい、それに絡めて地球温暖化といい、とてもいい本があるので紹介しておく。今回の震災の前に書かれている本なので、著者が今回の原発事故をどう見ているかぜひ知りたいところだが、震災前に書かれているからこそ意味もあると思う。アメリカの政治家にはこういったブレーンがつくのはうらやましいかぎりだ。やっぱりアメリカってすごいなあとも思う。日本の政治家も、この本ぐらい、読んでおけ!

まったくの偶然だが、今日で震災ちょうど半年、そして、アメリカのあのテロからちょうど10年。この本にはテロのことも書いてある。特に今日という一日、何もないことを祈る。

こうしようと立てていた計画が、暑さですべて突き崩れていく。一時の涼しさがうそのようだ。今日は結局どうして過ごそうか。

『Mr.サンデー』を見ていたら、震災前後で住宅の購入基準が変わってきたというのをやっていた。内容そのものも興味深かったが、地盤の話が出てきたので、やっぱり触れておきたい。前にも書いたかもしれないが、別にかまわない。

地盤といえば、なんといっても大学3年のときの地学の先生である。「軟弱地盤の上にも平気で家が建っている」と、何かあると二言目にはこのセリフが出てきた。

教職課程で必修となっている「地学実習」(という科目名だったと思う)は、バスで出かけたことがあった。私は教職課程を取っていなかったが、希望者は来てもよいということだったので、なんといっても面白い先生だったから、友達とともに参加した。

行きのバスの中では、この坂はいついつの年代に土地が盛り上がったその名残だとか何とか、その先生にかかると単なる坂が、地球の歴史物語に早がわりしてしまう。こんな目で世の中見たら、面白いだろうなあとつくづく思った。

帰りのバスの中で、川にかかった橋を通過したとき、こっからこっちは軟弱地盤。こっからこっちは大丈夫。という話をしてくれた。軟弱地盤のほうは比較的新しい家のようには見えたが、え?そんな簡単に区分けできちゃうの?と不思議でならなかった。1本の線を地図上に引くように、明快にその境界を示されたので。見た瞬間でわかったというより、元々の知識なのだろうが、なんとも印象に残った出来事だった。ちなみに、一般論として、昔から家が建っているところはだいたい大丈夫ということではあった。特に由緒あるお寺や神社は大丈夫とのことだった。それは確かに、古くからあってここまで建物が生き残ってきたのだから、素人にもわかりやすい基準だ。しかし、あのときの話だと、大丈夫な地盤のすぐ横が、素人目にはまったくわからず、軟弱地盤だった。それが怖い。

今の家を買うとき、本気でその先生にこの土地が大丈夫か教えてほしいと思ったことを今でも覚えている。この家ともう一つ候補にしたところは、当時女優が通っていたお寺のすぐ裏で、そこの地盤はきっと大丈夫だろうと思っていた。何しろ、確か鎌倉時代からあるお寺だから。今の家は、やはりすぐ近くに神社はある。しかし、あのときの地学の先生の話だと、これくらい離れていたら、平気で軟弱地盤になっているかもしれない。ちなみに、うちが建つ前はここは駐車場だった。おそらくその前は畑だろう。ちょっと坂になっているところに建っているのが気にはなるのだが。しかし、土地を切り崩して建てたわけではないと思うので、そこは安心だろうと思ってはいる。

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